円山梅雪は、文明三年(1471年)室町幕府管領職畠山一族として京都円山に生まれ若くして武野
紹鴎と同じく、わが国「茶の湯」の祖とされ京東山文化に茶の湯を茶道文化として位置付け大きな功績
を残した人物である。三条西実隆始め一流文化人、知識人と交流する一方将軍や、皇族、公家、僧侶や
商人とも太い人脈を持ち京都、堺に大きな影響力をもつ実力者でもあった。
永正十年(1513年)、京の畠山義元に請われ能登畠山宗家、七尾に下向、壱千貫の知行を与えら
れ千貫衆として七尾城内に居住し当主、義総や一族に、京文化(室町王朝文化)を伝授したのである。
特に梅雪は、自分の持つ人脈をとうして京都、堺から和歌、連歌、古典、焼き物、能謡、書画、作庭、
和歴、衣食住等、当時一流の文化人、知識人や文物を七尾によびよせ能登の地に京、東山文化をしのぐ
畠山文化の黄金時代を築いた立役者であった。
又、梅雪の重臣、鹿間家は京、堺の文人や文物を運ぶため、能登から越前敦賀まで行き来する船(海
上ルート)を持ち運航していたのである。(敦賀の気比神宮の宮司は梅雪一族と同系であり気比神宮は
現地連絡所だった)梅雪一族は地域文化の発展や育成に力を入れその中には「等伯」と言う一介の「田
舎絵かき」を絵師に育て京都画壇の檜舞台に登場させたのである。
梅雪夫婦は七尾城山中に法華宗本行寺を建立。当時の本行寺は中本山と云われた大寺であった。
円山梅雪の子息、清三郎氏吉は等伯とは親子ほどの年齢差が有ったが等伯の絵の素質を見抜きこの芽を
伸ばすため京、堺から絵師を呼び、又画材を与え中央画壇の絵を学ばせていたのである。
梅雪は利休の師である堺の武野紹鴎とつながりがあり堺にも多くの一系があった。堺、法華寺の住職は
代々梅雪一門が継承しており本行寺開基日士上人も法華寺出で梅雪の叔父にあたり堺衆(茶人、堺会合
衆)からは福人と呼ばれて堺の実力者でもあった。本行寺代々住持の耳書帖によれば等伯は「こうやの
せがれ」と呼ばれており、当時は数カ寺の日蓮法華宗寺院と一部の近在寺院しか絵の注文はなく絵だけ
では食べられず主な「なりわい」は指し物屋や仏壇屋が使う、松の木の「まつやにとり」をしていたの
である。あまりの貧乏なるが故、家族は離散し住む所もなく、見るに見かねて円山梅雪の子息、清三郎
氏吉が本行寺の納屋の片隅に彼を寝起きさせ本行寺の脚夫(きゃくふ)として雇っていたのである。
本行寺住持は毎年、京都本山妙蓮寺に出仕するのが慣わしでありそれは現在でも続いている。
元亀元年(1570年)は、信長と足利義昭の不穏と共に石山合戦が始まりこのため、本山出仕が出
来ず、翌年、元亀二年春、本行寺第三世、日源上人と梅雪の子息、清三郎氏吉(豊前守)、脚夫等伯を
同行させ海路より敦賀に上陸し湖水を横切り坂本から京に上がったのである。京には梅雪の妻(柳姫)
の実家であり清三郎氏吉(豊前守)にとっては母親の実家である「柳屋」に草鞋を脱いだのである。
当時、柳屋は酒屋と金融業を営み京洛一の土倉(大実業家)で、幕府や皇室の財政を支える大スポンサ
ーであった。又、公家、文化人、僧、寺院仏閣、法華宗、日蓮宗各本山等に年間壱千貫という莫大な寄
進をしており京都町衆文化発展の礎をなした家柄だった。
柳屋は強固な法華宗信者(永仁元年、日蓮の帝都弘通の遺命をうけた日像が佐渡から七尾の船主番匠
弥右衛門の船で七尾に上陸し翌年四月京洛五条坊門西洞院、柳屋の門前に題目口唱第一声を発した。こ
の時、柳屋中興法實、日像に帰依し洛陽最初の捨邪帰正の人となり京洛法華の大檀越となる。現七尾市
小丸山公園には日像の銅像がある)で京洛中の法華宗、日蓮宗各本山には毎年多額の寄進をしており、
特に本山妙蓮寺は柳屋邸内に建立した。よって妙蓮寺を「華洛最初日像菩薩脱履道場」と云わしめてい
る。京、中央画壇に新境地を求めた等伯は柳家の指示、紹介で京、堺の大寺院や権力者とつながりが出
来たのはゆうまでも無い。等伯への絵画注文製作はすべて柳屋の支援を受けていた大寺院か柳屋一族と
交流のある者ばかりである。
等伯は野心家で自己顕示欲が強い人物であった。当時の社会では、世に出ようとする者は先祖一系、
家柄を重んじる時代で自分の出自が大きく出世を左右した。為政者であっても金で系図を買い名家、名
門出をかたった様に、等伯も又、自分の出自を武家出身と名のっていたと云われているが当時すでに身
分制度があり、武家から身分最下位の土民職といわれた「こうや」に養子にいくことはあり得ない。
等伯は、七尾ですでに名を揚げているにも関わらずその一族や、住居跡、家族等、結びつくものは見当
たらない(等伯の歴史の多くは後世に作られたものが多い)。等伯の生涯中、数年間に及ぶ行方不明期
間が五回以上もあるのは当時の絵かきの大部分がそうであったように借金取りから逃避していたのであ
る。彼は一生ホームレスで貧乏から這い上がる事が出来なかったのである。死んだ日も、場所も分から
ず、墓も無く勿論法名もない(等伯の法名は後世、歴史家が制作)、しかし、これが等伯と云う巨匠に
ふさわしい幕引きであった。なぜならば彼の遺したすばらしい絵の中に在る魂が今も私たちの目の前に
生き続けているからである。能登の厳しい自然の中で「まつやにとり」に登った松の木から眼下の七尾
湾を眺めた風景が妙蓮寺松桜図からも見えてくる。彼が描いた多くの松の絵は七尾に思いを馳せた故郷
への情念だと思う。等伯は七尾に一度は帰りたかったことだろう。
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