円山梅雪と畠山文化

 

 円山梅雪は畠山一族の遊佐内記を父に、母は畠山左馬助の子、畠山三郎の女「おひさ」京都、円山生

まれ、この
時の畠山氏は管領で紀伊、山城、越中、能登、河内の五ヵ国の守護であった。梅雪八歳のこ

ろ父が没。京、円山で
生長し清三郎家長と名乗る、文明十五年梅雪、叔父、日士法師(左海、法華寺の

僧)と共に七尾の義統の許を訪れ
る。

 梅雪父の菩提を弔う為城山に草庵(本行坊)を草創。

 叔父日士法師、開基となり本行院日士上人と称す。翌年、梅雪帰洛。本行院日士上人、長享二年卒。

梅雪この頃
より中国、朝鮮、琉球、南蛮、宣教師、入唐僧より茶に関する知識、奥儀を究めると共に梅

雪独自の茶式を
あみだ
し「茶の湯」を茶道へと体系づけていくのである。

 この時の「茶の湯」は高価な道具を飾り唐絵を掛け書院飾りの書院茶(広間)で殿中茶と言われた。

其の後紹鴎
利休等により四畳半の小間、侘茶と変化していく。

 梅雪一時、管領家畠山氏に仕え後に泉州堺に住み、「福人」で円山長者と呼ばれていた。

 永正十年畠山義元に請われ、能登七尾に下向、羽咋郡の若部、本郷、鳳至郡の三井、河原田、珠洲の

川尻村など
一千貫の知行を受け七尾城内に住む。義元、義総公に仕え茶道文化を教え畠山文化のなかに

茶の湯を位置づけた。
梅雪の奥京柳屋の女柳姫、信仰大なり。梅雪夫妻、同年、本行坊を中興開基し柳

屋の名を入れ揚柳山、本行寺と号
す。

 天文九年、七尾に下向した東福寺の僧、彭叔守仙が茶人梅雪の名物茶器の多さに驚くと共に茶の湯に

旅情を慰め
られたと「猶如昨夢集」に書き残しています。又、利休の師である武野詔鴎を始め公家や文

化人とも交流し都の文
化を畠山文化に取り入れていきました。義総代には公銭を取り仕切る要職にあり

合戦の際には梅雪の家老、鶴田
馬淵、鹿間、高山、中村等七人の騎馬、兵士百人、のぼり馬印の旗

四本をなびかせ参戦した

(本行寺蔵、法性院円岸覚山書伝之写。円山梅雪四代にわたる五千字に及ぶ巻物より)

 鹿間家の館の跡は現在、七尾城史資料館のあるところで地籍にも載っています。

「実隆公記」「上杉家文書」にも円山梅雪が茶人、文人として度々記載されており畠山文化の担い手で

有ったこ
とが分かります。

 現七尾小丸山公園は畠山の頃梅雪の西の館があり円山の名を「おんまるやまさま」と言い(丸山)の

名が今でも
使われている訳です。「能登誌徴」より

その後梅雪一族は三代にわたり前田家に仕えました。

天文元年九月八日柳姫卒 天文十一年一月一日、円山梅雪 卒 七十歳。

円山梅雪草創 本行寺は七尾、山の寺にあります。


由来起

   「法性院円岸覚山書伝之写」

  五千字に及ぶ円山梅雪由来記   本行寺蔵