人が何かを信じるという時、それが他の人の愛であるのか、宗教の神であるのかを問わず、自分がそれを信じられるからには、その対象を信用しているということになります。信用しないものを信じるということは普通は考えられません。
ところが、人間は複雑です。場合によっては、信じると言いながらも信用しない、という人がいます。
たとえば、ある人は自分の交際相手が他の誰かと付き合っているのではないかと疑っていました。これは、当然、信用していない、という心理だと言えます。ですが、この人は、人に聞かれると、彼を信じている、と言うのでした。
つまり、本当は信じているとは言えなくても、信じたい、という気持ちがあるのでした。
一方、宗教の世界はどうでしょうか。
神や仏を信じていると言いながら、信用しない、ということがあるのでしょうか。
こちらの方も、あるようでした。
神にご利益を祈っても、めったに適わないと思っていても、神の存在はあると確信しているので、神を信じているが信用していない、という人達がいるのでした。
そこで、私は思いました。神が実在しても、なぜ、祈りが適わないのか、それは、単に信じる気持ちが弱いからなのか、もっと、その理由を考えるべきではないのか、と。
そんな時、師はこうおっしゃいました。
「神は信じていても信用すべきではない。それは、人間が神を正しくとらえていないからである。真の神が上にいらっしゃるのに、下を向いて邪悪な霊魂に語っていても、その祈りは無意味である。
人は、神とは何か、それを先に学ばなければならない。神を知らずに、神を信じられる方が不思議である。
幼くして親と別れた子が成長すると、親を探そうとするように、人は、神を探さなければ、神は人には微笑むことはない。」
私は、神を探さずに、神を語っていることに気が付きました。
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