慶長18年12月 「日本国中、諸人この旨を存すべし」と、秀忠は「伴天連追放令」を発す。
年が明けた1月13日能登は朝から雨でその日は珍しく温かった。夕方金沢からの使者が息を荒げ
て本行寺境内地(下寺屋敷)にある右近修道所入り口の筵を撥ね上げたのである。翌朝、右近は夜
も明けぬ内に、本行寺の住持に急の出達を告げ「長刀」「渾天儀」「音楽器(ねがっき)」「地録
」等を寄進した。 (本行寺霊宝目録より)
住持は、突然の出来事に驚いたが、右近の好物の「塩漬柿」を5個差し出すと彼は4個だけ受け
取り1個を残してあわただしく山を下りて行ったのである。
1ヶ月後の2月17日右近一行は、金沢を出発し京に向かった(右近追放は4日後には京都のキ
リシタン信者に知れ渡っていた)15日間かけて坂本に到着し幕府の指示を待った。幕府は2万人
のキリシタン信者がいる京都に近づく事を警戒し、坂本より川舟で淀川を下り大坂に出、4月20
日に長崎に到着した。
1ヶ月後、盟友の利長の訃報を聞き、8月の終わりに幕府の使者が長崎に到着し右近にマニラ追
放を告げた。陰暦9月10日村山等安宅にて「細川忠興」宛書簡「日本訣別最後の手紙」をしたた
めたのである。当時、紙は貴重品で草稿(下書き)などは一度使用した紙の裏を使うのはあたりま
えであった。
本行寺蔵「日本訣別の書」は、木版刷りの南禅寺御守御札の裏に書かれており(縦45センチ、
横16.5センチ)内容は、細川家財団法人「永青文庫」所蔵の「日本訣別の書」と同文である。
しかし、双方の書簡には段落の取り方に違いがあり9行目までは文字配列が同じだが、10行目は
永青文庫の書簡が「流如何六十年之苦」になっているが、本行寺蔵のものは「流如何六十年之」で
終わり苦という文字は11行目の頭にある、よって文末まで1字又は2字分の配列が違っている。
無断転載を禁ず
近々、出航いたすことになりました。
ところで、このたび一軸の掛物をさしあげます。
どなたにさしあげようかと思案しましたが、やはりあなた様にこそふさわしいもの、
私のほんの志ばかりでございます。
帰らじと思えば兼ねて梓弓無き数にいる名おぞ留むる。
彼(正成)は戦場に向かい、戦死して天下に名を挙げました。
是(私)は、今南海に赴き、命を天に任せて、名を流すばかりです。
いかがなものでしょうか。
六十年来の苦もなんのその、いまこそ、ここに別れがやって参りました。先般来の
御こころ尽くしのお礼は、筆舌につくす事は出来ません。
恐れながら申し上げます。
九月十日 南坊等伯
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