ゼウスの塔



 
前田一族はじめ、家臣の中に多くのキリシタン信者がおりその信仰道場とキリシタン文化圏交易の

事務所を七尾、本行寺に密かにその聖域を存在させていたのである。禁教下に於ける、信仰と交易は

国自体の存亡に関わる機密であり、幕府に秘密が漏れないよう幾重にもその対策が執られていた。

金沢城と本行寺の連絡往来は本行寺の下寺(現、金沢市寺町、昌柳寺)経由で行われ文書は一切使用

されなかった。慶長19年、右近達が海外追放された後も多くのキリシタン達が信仰の灯火を本行寺

右近谷に灯し続けたのである。その中に加賀藩重臣、津田玄蕃(正忠)宗門奉行 一万二千石の母、

海津夫人(細川、斯波、と共に足利幕府の三管領の一人であった畠山家俊の孫、早百合姫で京都在中

の1587年に受洗)もおり1642年本行寺で死亡。その墓碑がキリシタン信仰の本懐ゼウスの塔

と呼ばれるのは宝筺の中に十字に刻された聖霊体(キリスト)が納められているからである。

百合石越前式宝筐印塔(石質凝灰岩、高さ、2米80センチ、幅1米50センチ、基礎の上端段形、

正面上方左右に竪連子、下方左右に格狭間と塔身の正面中央に蓮座を添えた蓮弁円相を刻む格子紋と

格挟間を巧みに応用し大きな十字を浮き上げている)

 法名は全寿院殿妙安日玄大姉と刻され、全寿院はポルトガル語でゼウスと詠む。津田正忠家は母方

の姓であり父方の姓は三管領職の斯波で利家が武生(府中)時代から武将として待遇し家柄から他聞

をはばかり母方の津田を名乗らせた。津田玄蕃が住んで居たのが玄蕃町であり建物は現兼六公園事務

所になっており、屋根瓦には十字がきざまれて居ります。

右近と親しかった長連龍の嫡子、好連の夫人 松寿院は前田利家の娘、福姫であるが1661年好連

が死去した為中川光忠と再婚、2年後に離婚し本行寺にその娘、菊姫と共にキリシタンとして入山し

一代を終えている。

 

 盆唄で「釈迦の涅槃に遊ばぬ家は、町屋兵衛か黒氏の平内、森の中屋のこれ三軒」と唄われ加賀藩重

臣にいかに多くのキリシタンがいたか推察されます。毎年 5月26日 キリシタン達の魂祭り「アニ

マー祭」がこのゼウスの塔をかこんで行われていた。