高山右近と隠れキリシタンの寺



 
天文十二年(1543年)種子島に鉄砲が伝来すると藩主、大名、は競って外国文化の摂取に努

めた、特に信長は宣教師がもたらすヨーロッパの最新情報や鉄砲を中心とする兵器、軍船などの最

先端技術の導入に腐心し永禄12年だけでも、宣教師のルイス、フロイスに40回も会見しそれら

導入の為、京都や安土に教会を建てさせ布教を許している。利家も信長同様、鉄砲による戦術の必

要性を認めキリスト教文化の重要性を認識し「オーギュスチン」と言う洗礼名(「以下、無用のこ

とながら」司馬遼太郎著)まで持っていたのである。

 利家は天正9年(1581年)能登の国の領主となりかっての畠山氏居城の七尾城に入り其処を拠

点として越中の戦に出動した。当時の戦法は既に鉄砲隊主力による西洋型の戦術がとられており益々

外国からの武器、武具の調達、製造、使用の知識が領主、重臣には絶対必要だったのである。


 利家は七尾の西山台地
(現、山の寺)に多くの寺院を集め戦略的な意図をはかると共に、叉、キリ

シタン文化交流を重視し、その為、本行寺を寺院群の中核に位置させ万一、敵の侵入に備え、地形、

配置、防備、逃げ道など城郭様式に備えさせた。これは禁教下における隠れキリシタン達の信仰道場

とキリシタン文化交易の聖域を本行寺に設定したからである。ここに前田家一族、及び、家臣のキリ

シタン信仰者達の為、修道所を建て、わが国唯一の隠れキリシタンの本懐「ゼウスの塔」を出現させ

たのである。叉、一方ヨーロッパの技術、文化(銃器、軍船、医学、土木、薬学、火薬、天体、航海、

自然科学等)の導入を計るため密かに当山境内地にキリスト教宣教師(宣教師の大部分は、軍人、叉は

軍人上がりの者であった)を手厚く寄遇させて交易にも仲介させて居たのである。

当然、秘密が漏れないよう一般の者は本行寺に立ち入り、近ずくことが許されず、周りの寺院には多く

の武士団(永江善助兵衛)が常駐し本行寺を警護していた。


 天正11年(1583年)利家金沢城に入城すると七尾の小丸山城築城の工事は中断(昭和63年

3月、七尾市教育委員会発行「七尾のれきし」)され墨打ちされた材木は全て金沢に送られそれらを

使って牢獄建築の為に再利用されたのである。

1587年、キリシタン信仰故に秀吉から追放された高山右近を利家は客将として迎えるがそれはキ

リスト教(文化導入)の友好関係の意志表示を内外に示している。右近は藩重臣にはその存在は認め

られたが、中、下臣の者にたえず命を狙われ
る為、藩主の指示で慶長4年に当山境内地(現、下寺屋

敷)に新たに修道所をたて其処に常駐しペレス神父と共に積極的に諸侯や、武士達にキリシタン信仰

を勧めた、利家の奥、芳春院や利長までが受洗を希望表明するほどであった。叉彼は同宿しているキ

リシタン宣教師達より土木工学、特に水に関する知識を得、1609年富山県関野に城(後、高岡城

)を築く際この知識(石垣工法、濠の水源鑿井工法)が発揮された。


 本行寺創始者、茶道の租、円山梅雪縁の茶室「きく亭」は利家はじめ一族だけの茶会の場ばかりで

なく、この茶室で南蛮人宣教師から右近や加賀藩の重臣達が密かに南蛮文化を学び、禁制下に於ける

西洋文化の唯一の入り口であり発信するビュウロ(事務局)になっていたのである。畠山文化の黄金

時代を花咲かせた円山梅雪の寺、本行寺で畠山文化とキリスト教文化を吸収し後の加賀百万石文化に

大きな影響を与えたのである。


 家康が慶長18年12月伴天連大禁教令を発令し、右近も海外追放令を翌19年1月に受け取る。

本行寺古文書(霊宝目録)に「渾天儀」「地球儀」「長房公長刀」が見え追放時、右近から本行寺に

奉納されたものである。右近修道所跡、井戸跡が現在も本行寺境内地(右近谷)にある。右近追放後、

熱心な隠れキリシタンの一人、板屋兵四郎は宣教師から西洋の治水、土木工法を本行寺で修学し、後、

その知識を発揮して金沢城に「辰巳用水」を引いたのである。工事完成後、全ての関係者が殺されたが

兵四郎だけは本行寺でひそかに一生を送ったと伝えられています。





 高山右近書状(日本訣別の書簡)


 隠れキリシタン祭り


秘仏1 秘仏2
キリシタンの秘仏 1 キリシタンの秘仏 2