梅雪由来、前田家茶室「きく亭」

 円山梅雪は、永正十年(1513年)同族の七尾城主 畠山義元に請われて京より能登に下向し、一

千貫(参千五百石)の知行を受け七尾城中の館に住み、城主始め家臣団に京の室町文化、王朝文化を伝

えた。

 梅雪は城中に本行寺を建立すると同時に境内地に茶室「きく亭」を建て「畠山文化」に風雅な「茶の

世界」を出現させた。茶道は和歌、連歌、古典、書画、織物、工芸、焼物、生花、建築、居食住等あら

ゆる分野に関連しておりその発展は商工者を刺激し、それにより地元に富みの経済効果を与えたのであ

る。「きく亭」の会所は、右に床、付書院(出文机)を備え、天袋、違い棚、押板のついた書院造りの

広間座敷(八畳敷)で、ここで書院飾りの茶会が行われたのである。隣室は「湯間」と呼ばれ「十畳敷

」の広間でこの二間を合わせて「きく亭」と呼ぶ。柱は杉材の三寸五分の面皮仕上げ、天井板、棹、障

子等の木部は、黒柿、杉が多く使われ、又長押は、前田家が改修した折、釘隠しには「真向兎」を配し

た,三尺(九十センチ)の濡れ縁が中露地、大露地側に廻っており屋根は「切妻造り」である。七尾城

落城三十年前の天文九年(1540年)六月、京都、東福寺の僧、彭叔守仙が「きく亭」で梅雪の点前

で茶を喫した事が「猶如昨夢集」に書き残している。

 其処は山に囲まれ樹木が茂り谷川のせせらぎが聞こえる絶景の地であった。

 床の間には、和物、唐物、南蛮物、琉球物、高麗物の名物が並び、お茶はなんと宇治茶であって大変

驚いたと書かれています。

 この中に注目すべき点は「主人榻を下ろして茶話」と書かれている点です。榻とは腰掛けという意味

で当時、まだ中国の影響を受け唐物荘厳の書院茶であった事がうかがわれます。

天正九年利家が能登の領袖となりかっての七尾城に入り「きく亭」で目の当たりにした「茶の世界」に

感歎し、武士の嗜みは茶道にありと天正十三年、現在地に本行寺と共に移転し「重陽の節句茶会」「和

歌、連歌」「香合わせ」等を開催した。そして隠れキリシタン達の集会所、キリスト教文化圏との交易

場、西洋文化の窓口になっていくのである。

 加賀藩前田家は、キリシタン文化の交易の拠点として利用し加賀百万石文化に大きな影響を与えたの

である、高山右近や板屋兵四郎(辰巳用水)始め加賀藩家臣団の西洋文化を吸収する講義の場になった

のである。



  参考

      本行寺由来記  茶道聚錦  戦国武将と茶の湯  七尾市史

      資料による茶の湯の歴史   加賀前田家百万石の茶の湯         




利家書状と利常書状

 

きく亭 きく亭露地
きく亭 きく亭露地
梅雪所持 青磁「はちす